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2014/04/28

報告:漫画de哲学「考えるとはどういうことか?」


三浦です。4/19にカフェティグレで行なわれた『ジョジョの奇妙な冒険』を題材にした漫画de哲学「考えるとはどういうことか?」(進行:奥田太郎さん)の報告を、愛知教育大学の教員養成課程(社会専攻)に在籍する望月今生さんが書いてくださいましたので、代理で投稿いたします。

 1つのテーマについて、対話を通じて深く探求し合うこと。私はそれを中心的な活動とする集まりを作ろうと計画しているのですが、中々上手くいきませんでした。そんなとき、偶然インターネット上で見つけたものが、この哲学カフェです。そこでは、幅広い年齢層の方々が、哲学的な1つのテーマについて、対話を通じて深く探求し合う空間がありました。
 
 今回は「漫画de哲学」第2回ということで、テーマは「考えるとはどういうことか?」。荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第二部(戦闘潮流)第12170貢が題材でした。参加者の方々の主張を全てまとめて、分かりやすく記述するというような芸当は私にはできないので、まず、ある言葉をピックアップしたいと思います。それは、「変化」という言葉です。この言葉に関係して、外界・内界の変化が無い、もしくは、その変化を知覚できなければ、考えるという行為は不可能であるという主張や、ただ変化があるだけではなく、その変化が「心のアンテナ(志向性?)」に捉えられなければ思考は働かないという主張がなされました。また、ただ変化を捉えるだけでなく、それを能動的に「意味」や「価値」に結び付けて認知することが考えることである、という一歩踏み込んだ主張もありました。このことを、「経験に構造を与えることである(構造化)」と表現した方や「自由」という概念に関係づけた方もおり、変化という言葉から多くの主張が生まれてきたように思われます。この変化を捉えるものは「意識」だけでなく、「無意識」もそれと同じように捉えるのではないか、考えることとは言語を前提としているのではないか、という指摘もありました。
 
個人的には、人間と人工知能の相違点を突き詰めていけば、今回のテーマに一定の回答を与えることができるのではないかと思います。例えば、意味や価値を人工知能が理解した場合、その人工知能は、人間と同じように考えることができると言えるのではないでしょうか。もちろん、人工知能が理解したその意味や価値は、人間がプログラムした人工のものであり、そうとは言えないという反論が出ると思われます。しかし、私たち人間が理解している、または、個人的に持っている意味や価値も、他者の手垢まみれであり、他者からプログラムされたといっても良いものではないでしょうか。なぜなら、他者の意味や価値からはっきりと分離している、または、それらの影響を受けていない私だけの意味や価値などは存在しないと思われるからです。このように考えた場合、人間と人工知能の相違点とは何でしょうか。この問いの答えとして、「人間と人工知能の決定的な相違点は、『意志の有無』である」という主張がありました。考えるとは、その根底にきわめて人間的な「意志」を持っているのかもしれません。


今回から「哲学カフェ、やってます」のボードが登場!
 今回の最後では、参加者の方々が1人ずつ、「考えるのをやめたカーズ」とはどのような存在であるかについて発言する時間があり、カーズはもう生物ではなく物体であるとする主張や、カーズは人間を超えた存在であるという主張がなされました。特に、そのカーズを「苔」のようなものであるとする主張が記憶に残っています。

 今回の漫画de哲学において、「考えるとはどういうことか?」という問いに対して、明確な答えというものを見つけることはできなかったと思います。しかし、参加者の方々が年齢や立場を気にせず、1つのテーマについて真剣に対話し合うという体験は、とても意義のあるものであると思いました。私は学生という立場なので、普段、幅広い年齢層の方々と対話する機会がありません。大学の演習室では生まれない主張、観点に触れることができ、とても貴重な体験をしたと思います。ご一緒してくださった皆様、ありがとうございました。
 
ティグレでは終了後に任意でランチを食べたりしています。ある
参加者の方曰く、「このランチの時間が哲学カフェで生じた言い
足りなさやモヤモヤを解消するよい装置になっている」のだとか。
この日も1時間半にわたり「アフター哲学カフェ」がなされました。
 
前回に引き続き、今回も哲学カフェ初参加の方による新鮮な眼による報告文でした。突然の申し出にもかかわらず快諾して下さった望月さんに深く感謝いたします。ありがとうございました。