ページ

2014/06/22

書評カフェ『100万回生きたねこ』〜青木さんより〜

おはようございます、まつかわです。
大阪は雨ですね。
セミナー受講者の方にはお足下の悪いなか来ていただくことになりますが、NSD日和ではあるかもしれません。
私も無事松葉杖から解放され、スタッフとして参加させていただきます。

その前に、先日の中之島哲学コレージュ/書評カフェ『100万回生きたねこ』の進行をしてくださった青木健太さん(大阪大学大学院文学研究科大学院生)より、報告&感想をいただいたのでご紹介します。


今回はスライドの使い方をけっこう工夫しました。どうしてもクセで「ここの記述にもとづくと…」みたいなまとめ方をしてしまうので、なるべく行間が多い絵本の雰囲気を残す方向にもっていきました。絵本は言葉数が少なく語り過ぎることがないので、何かを考える上で良い始まりをくれるようです。もって行き方によっては、かなり直観的な思考を動かすこともできるんじゃないかなぁ、と。

参加者は45人ほどで小学生くらいの子もいたので、「まんべんなく各世代が来たぞ」と言ってもいいですよね?あのオフィス街のど真ん中で、子供から高齢者までが、生きるとか死ぬとかの話をする時と場を作れたことは、そこに居られなかった何かに場所を空けたんじゃないかと思っています。その「何か」を「死」というのか「生」というのか「いのち」というのかわかりませんが。大袈裟ながらもそう信じたいわけです。

うれしかったので、撮影をお願いしちゃいました。
問いは二つ用意していて、一つ目は「なぜ100万回生きたねこはもう生きかえらなかったのか?」。この問いはねこについて考えるので、ちょっと自分自身のこととは距離を置きながら考えられる感じです。語り出されたことは、自分の生が他人のものなのか自分自身のものなのか、何かを失うことの意味の大きさ、などなどでした

二つ目の問いは、100万回生きたねこのいのちが「自分がこれで満足だと感じるまで何度でも生き返る命」だとして、「あなたは100万回生きたねこになりたいですか?」。なりたくないという人が多いんですが、なりたいという人もちらほら。参加者の方自身に問いを向けたので、ちょっと語りの雰囲気は変わったような気がします。うまく表現できないんですが、一つ目の問いほど輪郭がはっきりしないちょっとぼかしが入ったような語り口です。終わり際くらいにさらに突っ込んで「あなたはすでに100万回生きたねこと同じ命をもっているとして、あなたは1回で死ぬ自身はありますか?」と皆さんに聞いてみました。すると、さっきまで100万回生きたねこにはなりたくないと言っていた人もちょっと揺れる感じに。答えが揺れることはなんとなく想像はしてたわけですけど、いや、それでもこれは実際聞いたらやっぱり大事だと思いました。

たぶん「こういうふうに人生を終えたい」と思っている影に「でもどうだろうなぁ」という不安があって、それでもやっぱり望むことはそれなりにあり。次の瞬間に人生を全否定するものが来ることも、全肯定することがくることもあるわけで。だから、望んでいることを実現しようとする努力もそこにはあるのですが、そのとき不安はたぶん努力の動力系に組み込まれてしまっているんだろうと思います。望んでいることが実現すればそれまでのことですが、実現しなかったときに何が残るんでしょうか。実現しないとして、それでもまだ次の何かを望むんでしょうか。それとも、自分が自分に定めたこととして何かを望んだのだとしたら、その時点でもう望みは叶ったことになるとかでしょうか。何やらこの類のことが、生き死にを考えるときの深度に関わってそうな気がします。





青木さん、ありがとうございました。

次回の中之島哲学コレージュは7月2日「哲学カフェのつくりかた」です。
仙台で哲学カフェを展開されている西村高宏さんをはじめ、カフェフィロのメンバーがゲスト。ふだんはそれぞれの活動に忙しく、会ってじっくり話す機会はなかなかないので、楽しみです。