ページ

2015/02/27

NSD感想「自分の例が選ばれてほしかった!」

こんにちは、まつかわです。
NSDセミナーの感想、4人目。
今日は、NSDの窮屈な側面を率直に指摘するご意見です。
主催者としてこういう感想を取り上げることはあまりしないかもしれませんが、これもNSDの大きな特徴だし、終わった瞬間、真っ先に「また参加するぞ!」と表明してみんなを笑わせたのもこの方だったので、思い切って掲載します。



自分の例が選ばれてほしかった!

「許す」というテーマで話し合うことになった。
私の体験談を取り上げてほしくてたまらなかったのだが、惜しくも成らなかった。この体験談については、何度も自分の中で反復してきた経緯があり、何を聞かれても平気だという自信があっただけに返す返すも残念であった。
この時点で、テンションはガクンと下がった。

やはり自分の例が採用されなかったことが、最後まで尾を引き、セッションにのめり込めなかった感は否めない。
私が、自分の例にこだわったのは、その方が楽しいし、また自分自身にとっても得だからだ。それが成らず、他者の例だとテンションが下がってしまった、というのも考えてみれば自己の未熟さを晒してしまったとも言える。
大きな疑問点としては、例としての体験談が、完全に許したという結末でなければならない、という点である。私の例では、完全に許してはおらず、いまだに澱のようなものが心の中に残っているのだ。しかし、その澱のようなものの中身を探ってゆくことによって「許す」ことの本質に迫ってゆけるのではないかと私は思っている。

ディナーで、たくさん料理が出たけれど、一番食べたかった料理が食べられず、あまり食欲の湧かない料理を渋々食べさせられて消化不良を起こしたとでも言えばいいだろうか。一番食べたかった料理は、噛めば噛むほど旨みが増し、その深い味わいの深奥を知らずにはおけない心地に導くことは必至であったのに、とまたこれは自分勝手な妄想?を繰り広げてしまうのだ。


(ちょい悪)


2日間のNSDだと、せいぜい1つの例について吟味するのがせいいっぱい。
これも、NSDの特徴です。
(1週間のNSDだったら複数の例を吟味することもあるそうですが・・・)
1つしか例を選べないのは、普段哲学カフェでいろんな体験談を手当たり次第話せる事に慣れているとちょっと窮屈な側面かもしれません。

今回、ちょい悪さんが出された例の他にもう一つ、「これがいい!」という人と、「その例はちょっと」という人が分かれた例がありました。
特にちょい悪さんの出された例は「それが『ゆるす』の例とは思えない。本当はゆるしてないんじゃないように思える」という人がいて、しかも、ちょい悪さん自身もそのことを認めてらっしゃったので、NSDの「問いに肯定的に答える例」という条件からはずれてしまいました。
で、最終的に、「絶対にこれがいい!」という人もいないけれど、全員が「それなら、反対ではない」と思える例を選ぶことになりました。

以前の報告にも書いたように、この例を選ぶ場面は、本当に参加者にとって大変だったことでしょう。精神的には最大の難所だったのでは?
でも、これまでの経験上、あっさり全員の意見が一致して選ばれた例ほど、あとあと遭難しかけたりするので、ここでじっくり話し合えたのはよかったと思います。

ちょい悪さんが「僕の例が選ばれてほしかった」とおっしゃていたので私もドキドキハラハラでしたが、最後に「絶対また参加する!それで、今度こそ自分の例が選ばれてほしい!」と言ったときは、ほっとしました。
ちょい悪さんの出された例は本当に興味深かったので、私も、哲学カフェか、別の問いでNSDをするときにじっくりうかがう機会を待っています。