ページ

2015/11/20

対話できないのは誰?〜障害と哲学対話〜

こんにちは、まつかわです。
さきほど、メルマガ12月号を発行しました。
新規登録、登録アドレスのご変更はこちらからどうぞ。


明日は岡山市立中央公民館にてどーなつカフェです。
2回目の明日のテーマは「『社会に貢献する』の『社会』って何?」。
ソーシャルグッドをつくろうという活動をしている女子高生の疑問です。
初めての方も大歓迎。ご都合のよい方はぜひお越しください。

それと関連して、今日はちょっと、障害と哲学対話について書いてみようとおもいます。
10月に参加した哲学プラクティス連絡会(学校や街中で哲学対話を実践している人たちの集い)で、こんな質問がでました。
「耳が聞こえない人や、言葉を話せない人に対して、どのようなフォローが考えられますか?」 
「哲学対話は誰でもできるというけれど、対話できない人もいるのでは?」
その場で納得いく答えが出せず、ずっと気になっていたのですが、前回のどーなつカフェにそのヒントがありました。


どーなつカフェでは、みんなで輪になり、ハワイの子どもの哲学(Philosophy for Children/P4C)で使われるコミュニティボールという毛糸のボールを使って話し合います。
コミュニティボールのルールは簡単。

1)ボールをもっている人が話す 
2)ボールをもっている人は話すのをパスすることもできる 
3)ボールをもっている人は、話が終わったら、次の人にボールをパスする


前にもちらりと書きましたが、前回は、参加者のなかに一人、視覚障害のある方がいました。
お名前を、Pさんとしましょう。

Pさんがボールをもって話したあと、別の男性Tさんが「はい」と挙手し、ボール(と話す権利)を求めました。
さて、どうしよう。
Tさんがどこに座っているか、どの方向にボールを投げればいいのか、目の見えないPさんにどうやって伝えたらいいんだろう?
そのとき初めて、私は気づきました。
視覚障害のある方と、どうやってボールを使った対話をすればいいのか、自分が知らないことに。

戸惑いのような困惑のような沈黙が流れはじめたそのとき(ほんの2〜3秒だったと思います)、Pさんが言いました。
「手をたたいてください」
Tさんが手をパンパンと2度叩くと、Pさんの手から離れたボールは、きれいな放物線を描き、ぴたりとTさんの手元に届きました。
「おぉ!」
その見事なコントロールに、歓声があがります。

その後、私たちはボールを受け取るときには必ず手を叩くことにしました。
Pさんからボールを受け取るときだけでなく、他の人からボールを受け取るときにも。
Pさんとボールの描く軌道を共有できるように。
それは愉快な発明でした。
ときどき、手を叩くのを忘れそうになります。
あ、と思って、慌てて手を叩く。
そうすると、対話の内容にばかり夢中になって、他者への配慮を怠ってしまいそうになっている自分に気づくことができました。


この出来事を、「Pさんは目が見えないから、他の人が助けてあげた」という見方をする人もいるでしょう。
(あるいは、現象学風にこう言うこともできるかもしれません。「〈できない〉は、誰かの中にあるのではない。私たちの〈あいだ〉にある」と。)

でも、私の実感はちがいました。
たしかに、Pさんは、目が見えない。
でも、彼女は、初めて参加するワークにもかかわらず、どうすれば自分がそのワークに参加できるか知っていました。
むしろ、彼女とコミュニティボールを使って話す方法を知らなかったのは、「できない人」だったのは私たちのほうです。
それが、Pさんの「手を叩いて」という一言のおかげで、すっと動きだせた。
おかげで、あの日、どーなつカフェに参加した人は、今後、別の視聴覚障害のある人とも、コミュニティボールを使った対話を楽しめるでしょう。
彼女は自分がその方法を知っていただけでなく、他の人を「できない人」から「できる人」に変えることのできる人だ。
私はそう感じました。


この一件は、私に次のような疑念を抱かせてくれました。
 視覚障害にかかわらず、障害のある人との関わりを困難を感じるとき、私たちは、「相手ができないから、できないのだ」と思い込みがちだけど、果たして本当にそうだろうか?
むしろ、障害がある人とのコミュニケーションを困難にしているのは、その障害との関わり方を知らない私のほうではないか?
「障害のある人=できない人/障害のない人=できる人」という思い込みを逆転させなければならないのではないか?

もしそうならば、私たちがとるべき姿勢も変わってきます。
障害のない人が障害のある人を助けるのではなく、その障害と長く付き合ってきた人から、その障害との付き合い方を学ぶというふうに。


実際に、聴覚障害 のある人、発声障害のある人、精神障害のある人との対話でも、同じようなことがありました。
長くなってしまうので、その話は、またいつか。