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2016/02/26

尾道初の哲学カフェ「嘘をついていいのは、どんな時?」(2)

おはようございます、まつかわです。
昨日は結局書けずに寝ちゃいました。。。
焦らしちゃってすみません。尾道レポの続きです。

前編はこちら よりどうぞ。
(ところで、私が24日に「明日こそ続きを書きます」と言って、そのときは確かにそのつもりだったんだけど、結果的に「明日」である25日に書かなかった(書けなかった)。これは、「嘘」にあたるのでしょうか?)




「嘘とは何か?」や「よい嘘と悪い嘘のちがいは?」など、たしかに「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いを中心に始まった哲学カフェ。
その後、この問いの前提そのものを揺るがす問いが浮上します。

といっても、その問いは突然現れたのではありません。
気づいたら、いつの間にか、私たちの対話のなかにいたんです。

そのときは気づかなかったけれど、振り返ってみると、最初のターニングポイントは、最後までみんなの関心をつかんではなさなかった、あの体験談だったように思います。

勤めだしてからしばらくして、私は「仕事 でうまくやるポイントはゴマをすることだ!」と気づき、それからずっと上司に可愛がられるようゴマすりをしてうまくやっていた。でも、ある時、その上司からある物をもらったのをきっかけに、私は一切ゴマをすることができなくなってしまった。。(「ある物」がなにか、哲学カフェでは聞いたんですが、ネット上では誰が読んでいるのかわからないので秘密にしておきます。)
それをもらって、私は「その人に対して、本当はビジネス的な関係だとしか思っていないのに、あたかもそれ以上の、まるで親友と思っているかのように偽ってしまった。もし自分が部下にそんなことをされたら、どんなに傷つくだろう」とものすごく後悔した。
この体験について、ご本人は「自分のことしか考えず、関係性を偽ってしまった。これは、ついてはいけない嘘だった」と言いましたが、参加者のなかには別の受け取り方をする人もいました。

ある人曰く、「それで上司も幸せだったんだから、そのまま嘘をつき続ければよかったんじゃないの? それはいい嘘だと思う」と。
別のある人曰く、「でも、そのゴマすりって、事実と異なることを言ったわけじゃないでしょう?あることを誇張して伝えただけじゃないんですか」と。
また別のある人曰く、「それをもらって元の関係に戻れなくなったということは、むしろ、上司の信じてる関係のほうが本当だったんじゃないの?本当にビジネス的な関係だったら、割り切って続けられたはず」と。

前者2つの意見は、まだ、「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いをめぐって、序盤のやりとりの延長線上にある見解だと思うんです。
しかし3つ目の意見。ここからにわかに、怪しくなってきます。

ゴマをすっていた部下が信じていた関係性と、上司が信じていた関係性と、一体どちらが真実なのでしょう?
何が真実で、何が真実でないか、一体誰がどうやって判断するのか?

もう一つ、この真実をめぐる新たな問いを後押しした例があります。

私はこのメガネを通して世界を見ている。そのとき世界はとてもくっきりして見えているけれど、本当の私の眼で見る世界はもっとぼんやりしている。これって、嘘じゃない?

この例についても、やはり別の見解がでました。

裸眼で見ているぼんやりした世界のほうが嘘というか、間違っていて、眼鏡をとおしてみえている世界のほうが真実に近いと思う。

このやりとりを聞いて(実際には、この2つの発言は連続してでたわけではなく、間にいくつか別の例に関する言及をはさんで、後者の発言がでてきました)、私(=コンタクト愛用者)は、「後者の意見が正しいなら私の眼は一生真実を見ることはできないし、前者の意見が正しいなら真実は決して一つではなく人の数だけあることになるなぁ」と思いました。
最初に「嘘」の定義として「事実と異なることを言うこと」というのがでてきましたが、そしてそこに意図があるかという条件をつけるべきかどうかで意見が分かれましたが、こうなるともう、「事実と異なる」かどうかを誰がどうやって知りえるんだ?という疑問をを無視できません。
他にもそう感じた人がいたようです。

もうこうなったら、何が嘘で何が真実かという問いでは考えられない。うまく機能してるかどうかで考えたらどうかなぁ。

いつのまにか私たちの対話の伴奏を奏でていた「何が真実で何がそうでないか、誰がどうやって判断できるの?」問題が、メロディーラインをかっさらった瞬間でした。


‥‥これで終わりにしようかと思ったけど、もう一個忘れられないポイントがありました。
(3)に続きます。