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2010/10/19

病院での倫理カフェ

 本日、大阪市内のとある病院にて、「倫理カフェ」という名前の対話セッションをカフェフィロの進行で行いました。これは去年度からこの病院の倫理検討会の延長で行われているもので、なんと毎回50人強の医療職の方が忙しい勤務の間をぬって参加されています。当然、一つのグループではなく、五つ程度のグループに分け、それぞれにカフェフィロの進行役がついて対話を行っています。

 今日の倫理カフェのテーマは「自然に死ぬということとは?」というテーマでした。参加された方は、共有している事例のことや、医療者としての経験、他のケースから思ったこと、あるいは一個人としてどう思うかなどいろいろな観点から意見を出していきました。
 あるグループで進行役を務めた私の発見は「自然に」という言葉がいくつかの意味で使われているということでした。人為的な手を加えない、naturalな死、という意味で「自然」という言葉が使われることもあれば、ある文化や集団において一般的であること、normalな死、という意味で「自然」という言葉が使われることもある、という指摘がありましたし、「あるがまま」の死も「自然」な死と考えられるのでは、という意見もありました。
 一人の参加者の方が「人間が一人で生きているのなら、手を加えないという意味でのnaturalな死を迎えられるかもしれないけど、社会や文化、あるコミュニティの中で暮らしている以上、naturalな死というのはありえないのではないか」と言われたことが印象に残っています。文化のなかでの「自然な死」とは何なのでしょうか。
 個人的にはそれと同じくらい「死を受容して生き終えること」が気になってはいます。

 カフェフィロではこのように、病院や職場、学校や地域で哲学カフェや対話ワークショップが行ってみたいという方に対するアドバイスや進行役派遣も行っています。一緒に対話の場所を作っていけるようカフェフィロも知恵を絞りますので、こんなことがしてみたい、ここで対話ができるか、などお気軽にお問い合わせください。